1983年冬〜1984年正月の旅

豪雨、いら立ち、そして・・・

四回生になりゼミも決まる。理系の四回生には自由というものがほとんどない。
南薩線のことが気になるが情報も入ってこない。
そのような毎日を過ごしていて、テレビのニュースから加世田地方に集中豪雨があり大きな被害が出ていることを知る。
南薩線はどうなっているだろうか?そのことが一番気にかかる。
少しずつ情報が入って来て不通になっている区間があるらしいことがわかる。
時刻表にも「※鉄道線は災害のためバス代行となる区間がありますので、ご利用の際はご確認ください。」のコメントが記載されるようになった。
不通になっている区間がやっとわかった。伊集院〜日置と加世田〜枕崎である。
列車が動いているのは、日置〜加世田間だけである。
一つの思いが脳裏を走った。「災害による不通、その行き着く先は・・・廃線」
万事休す、駄目押し、もう復活する可能性はない。いくつもの地方私鉄が同じ道をたどってきたきたことを知っているだけに、答えが一つしかないこともわかっている。
ただ一つ残されたことは、その時期がいつになるのかということだけである。
それによっては、再会できる可能性もあるのである。できることなら動いている彼らにもう一度会いたい。そのことだけを思って毎日すごすようになっていた。
世間一般は夏休みの時期、そんなものは無いに等しい。わずが数日とれたが熊本に帰省するのがやっとで到底鹿児島まで足を伸ばす時間などはない。少しでも近くで情報収集と思い色々するがあまり集まらない。
やはり、熊本からでも鹿児島は遠いところなのである。
バタバタしているうちに秋も一瞬にして通り過ぎ年末が近づいてきた。廃止決定の知らせが入らなかったのがせめてもの慰めである。
年末年始は少しまとまって休めることができるようになった。
常宿にしているユースに電話して宿泊の予約をとる。「今年も来ると思っていた。」と電話の向うの声。もう声を聞いただけでわかってくれるような間柄になっていた。
12月24日、下宿先を出発する。手の中には「九州周遊券」、始発の各駅停車に乗り、乗り継ぎながら山陽本線をひたすら西に向い、関門トンネルをくぐりローズピンクの電車と周りの人の話す言葉で九州入りしたことを実感する。
博多からは、「有明」で一気に熊本をめざしとばりの落ちた熊本駅に着く。
さあ、数日間は九州人でいられる。
数日間、実家での野暮用があったが、それもさっさと済まし例によって真夜中の臨時「有明」に乗るため実家から熊本駅に向う。12月30日の午前零時過ぎである。
昨年の年末と全く同じ行程である。熊本での下車客で空いたところに席をとることができたのも昨年と同じである。
いよいよ朝には南薩線に会えると思うと少しばかりハイな気分になる。しかし、このたびほど、南薩線までの距離が遠いと感じた事はなかった。
いつのまにか発車した列車は快調に鹿児島本線を南下する。減光された薄暗い車内の中にジョイント音だけが響く。ウトウトしだしていつのまにか寝てしまった。


田の神さぁとキハ302(1984年元日)



再会へ

浅い眠りから目が覚めたのは、どのへんを走っているころであろうか。そんなに長い時間は眠れなかった。
定刻に伊集院に到着する。周りはまだ真っ暗である。急行「かいもん」を受けるスジの代替バスの時間まで少しある。
待合室で休憩するため跨線橋を渡り改札口に向う。
改札前のホームにはキハ300形がひっそりとたたずんでいる。その前にあるホーム上屋を支える柱には、「伊集院〜日置間災害のためバス代行」と手書きされた紙がダンボールに貼られビニールを被せられて掛けてあった。
「不通」の現実を突きつけられる。
時刻表で見る限り西鹿児島直行の列車は運休になっておらず、少し疑問に思っていたが、取り残されたキハ300形で運行されているのだなと納得してしまった。もっともこの時は検査とか給油をどうするのはなどは思いもしなかった。
改札を出て待合室のベンチに空席はないかと見渡すが同じように代替バスを待っている人が結構いて埋まっている。皆寒そうにしている。昨年と同じく故郷をめざす人たちである。
と、その時、見たような顔を見つけた。向うも気がついて、互いに声を掛けた。
春休みにユースでヘルパーをしていた者である。
突然の再開を喜び少しの間四方山話に花を咲かせた。お互い就職が内定したとか、卒業研究がどうのとか、・・・
そうこうしているうちに、「ユースまで歩いて行こうか」ということになり、伊集院駅を後にした。
真っ暗闇の飯牟礼峠を行くのはスピードを出した自動車が怖かったので南薩線と県道24号線が交差するところから線路内を歩くことにした。
道路よりも真っ暗である。線路だけが頼りである。ただ黙々と歩く。
大田ずい道の所にきた。同行者がジッポのライターをつけ明かり代わりに通り抜けた。見た感じではそんなに傷んでいるふうではなかった。
ようやく上日置に着いた。さすがに線路を歩くのも疲れたし峠も越えたので道路に出ることにした。
男2人、県道37号線をトボトボ歩いていたら南薩線が県道を越える付近で軽のワゴンが止まってくれた。「のっけてやるよ!」と誘われた。
我々は「日置までですからいいですよ。」と断ったが、改めて誘われたので言葉に甘える事にして寺下のバス停まで乗せてもらった。
その間、ほんの少しの間であったが我々がここに来た事などを話した。
お礼を言って車を降り、ユースに向う。ユースに着く頃には夜も明けだしてきた。
朝食の支度をするため起きてきたユースのおかみさんを見つけさっそく挨拶をする。「ただいま〜!」
朝帰りである。
いよいよ南薩線の現状を見ることを始める。

 
加世田駅にて



日置から加世田へ

ユースの宿泊者も起床してきて朝食を一緒にとる。
宿泊者の中にも顔なじみの者もいる。年末年始を吹上浜ユースで過ごす事にしている常連客が結構いるようである。
朝食後、我々二人が伊集院から線路を歩いてきた事を話したら、宿泊者の一人が言った。
「一日一回、伊集院〜日置間に列車が走っているらしいよ。」
我々二人は、一瞬、背筋がゾッとし、言葉を失い、顔を合わせた。
そして、我々が大田ずい道を通っていたとき列車が来なかったことにホッとした。
話の続きを聞いていたら列車が通るのは午後らしいということで改めて安心した。

伊集院から一緒に歩いて来た者は、ユースのヘルパーをすることになり、ゴソゴソと仕事を始めた。
当方は、一休みしてから行動を開始するするつもりでユースの中をぶらついていたが、12月30日恒例の餅つきの準備を手伝わされるはめになり、結局、日置駅にも行かずじまいでその日一日がすぎてしまった。
状況を見たいと思っていたのに伊集院駅の張り紙で現実を見せ付けられて少々落胆してしまったようである。

次の日、大晦日である。
何のためにここまできたのかわかっているのだが、午前中は、なかなか行動をおこせない。
そんななか、今日の午前中にユース入りした者が、加世田まで行ってみたと言ったのでやっと行動を起すことにした。
列車で加世田に行くため日置駅に徒歩でむかった。
午後2時前の本来であれば西鹿児島から直行の枕崎行きに乗って加世田に向かう。
沿線を見ている限りでは水害の傷跡と思われるものは見られなかったようである。
列車は徐行する所もなく今までと同じようにジョイント音を奏でながら淡々と走って40分程で加世田の上りホームに着いた。
加世田の構内を見回してみる。枕崎方面のホームには、ほとんど列車が入らないらしく線路は錆付いている。さらに枕崎に向っている線路は、あることにはあるが完全に錆付いている。
これらの風景を見て今まで来た時のように写真を撮影する元気もなくなってしまった。
撮影したのは、放置されている木造客車と改札上に掲げてある時刻表の2枚だけである。
時刻表上で何本かの列車の時刻の上に「臨時バス」の張り紙がしてある。なんらかの都合で日置〜加世田間も列車に替わって代替バスが運転されているようである。理由はわからない。
時刻は午後4時前、大晦日の買い物客で賑わうスーパーマーケットに比べて駅は対照的にひっそりしている。
駅の人も鉄道の仕事より、貨物ホーム跡を利用した駐車場の料金収受や整理に忙しそうにしている。これが現実である。
列車で日置まで戻るには、一時間半以上も時間があるので列車の代替バスで戻ることにした。
鉄道の駅に相当するバス停のみに停車し他のバス停には停車しないし、鉄道の車掌さんが同乗しており乗車客に車内補充券を発行し下車客から切符を回収している。
列車の時刻と同じ時刻に日置駅近くのバス停に着き下車した。その時、日置駅の方から列車のタイフォンが聞こえた。
「列車は動いている。」改めてそう感じた。そして、田畑の中の線路を加世田に向かって走り出した列車を見えなくまで見送り、ユースへの帰路についた。

 
日置駅付近にて



1984年元日、日置駅の一日

大晦日の夕方、秋に別府鉄道で会った者がユースに入ってきた。
彼も今まで何度となく南薩線を訪問しているが、一緒になったのは初めてである。突然の再会に双方驚きそして喜びあった。
夜は、ユースの年越し近くの神社への夜参りなどのイベントで遅くまで同宿者と起きていた。
元日の朝は、地区の行事に宿泊者も参加するためいつも通りの時間に起きる。
地区会長の新年の挨拶を皆で聞くが南薩線のことには触れられなかった。
いつも通りの時間に朝食を済ませ今日一日どうするか思案するがなかなか決まらない。
天気はものすごく良いが気分はあまり乗らない。
昨日のアルコールも残っているのが影響しているかもしれない。
ようやく昨日ユース入りした彼とカメラをぶら下げて日置駅まで行く事にした。
駅に着いてしばらくすると加世田からのキハ106が到着し乗客が降りてきて代行バス乗り場の方へ向う。
少し遅れて伊集院からの代行バスが到着し列車に乗り換える乗客が改札を通っている。
大晦日までに帰ってこれなかった帰省客と思われる大きな荷物を持った人たちも多い。
乗客の中の一人が「乗り換えるのがめんどくさい。このままバスで行けたら良いのに。」とぶつぶつ言っているのが聞こえた。
当方としては複雑な心境である。
代行バスからの乗客の乗車が完了するとキハ106はタイフォンを鳴らし伊集院方面のホームから加世田に向けて出発していった。
我々と同じように撮影している者が他に一人いた。
列車が出発した後。どちらからともなく話すようになった。
「元旦だけど着物姿がなくて正月らしさが感じられませんね。」などの話をしてすこし過ごした。
最後に名刺をもらったが「日本リアリズム写真集団鹿児島支部」「鹿児島渚を愛する会会員」のN.A.という方で、後になってから石橋の写真等で名前を見るのとがある方だった。

時間があればユースに戻り列車の時間になると駅に行くことの繰り返しとなった。
次の列車もキハ106である。今日の線内のみの列車はこの車両のみのようである。
駅長と少し話すこどができた。
駅長曰く「3月頃までです。線路もはがしてしまいます。」などのことを聞いた。
そういえば、「鉄道廃止反対」の張り紙も見なくなっていた。鉄道廃止はいよいよ現実味を帯びてきていうようだ。
次の列車はキハ302がやってきた。乗客をバスに渡した後、アイドリングしながら伊集院方面のホームに停車している。
当方と彼は、駅の伊集院寄りにある田の神さんのいるところで伊集院からの回送列車を待つ。
しばらくすると城山に響くタイフォンの音が聞こえジョイント音が聞こえ出す。
一日一回通る伊集院〜日置間の列車である。田の神さんと一緒に撮影、キハ301である。
すぐさま駅に戻り給水塔と挟んでホームに並んだキハ302とキハ301を撮影する。
伊集院に向けた回送列車の発車時刻が近くなったきたので下りの場内信号機のところまで急いで行きカメラを構える。
腕木式信号機を入れた構図で一枚、城山を背にした構図で一枚撮影した。

この後は、バスによる代行となり列車は暗くなるまでないので駅を後にしユースに戻り今日の撮影を終った。
鉄道廃止という暗い話題とは正反対な快晴の元旦の一日であった。どちらも夢ではなく現実である。

翌日2日、予定通り鹿児島を離れる事にする。
彼は、沿線での撮影をもう少しするとのことで午前中にユースを出発した。
当方もいつもであれば、午前中の便で出発するのであるが、ユースでぶらぶらしていて結局昼食をとってから出発することになった。
日置駅で伊集院までの切符を買うが乗るのは列車ではなく貨物ホーム跡から出る代行バスである。
一番後ろの席に座り見送ってくれるユースのヘルパーや連拍者に手を振り別れを惜しんだ。
初めてバスで飯牟礼峠をバスで越え伊集院駅前に着く。改札口ではなくバスの扉のところで鉄道の車掌に切符を渡して代行バスを降りる。
水害後の南薩線を実見するための旅は終った。
日置駅の駅長が言っていた3月というのが3月のいつ頃になのかが気になる。
3月始めは卒業研究の発表、月末は就職のための引越しの予定がすでに決まっている。
春休みに会いにこられる保証はない。
そんなことを思いながら上り特急「有明」の自由席の客となった。


日置駅にて 背後に代行バスが見える



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